お正月の風習は、日本各地で違います。同じ国の中なのに、驚くような違いがあるのです。例えば餅です。形が全く違います。味は同じなのでしょうが、初めて見た時に、驚いた人も多かったのではないでしょうか。
同じように日本全国、正月飾りをしますが、地域によって飾る期間が違います。関東と関西で引っ越しをした人はとても驚くそうですよ。
今回は関西地方(京都・大阪)で、正月飾りを飾るのはいつまでなのか。について解説します。
大阪京都では正月飾りを【いつまで】飾る?お正月を松の内と呼ぶのは、みな一緒
正月飾りを飾るのは、日本全国どこでも松の内が終わるまでです。松の内が終わる日に正月飾りをしまいます。
松の内と言う呼び名は、お正月に、歳神様を自分の家に迎えておもてなしをしている間、門松を門に立てている事から使われるようになりました。おもてなしが終わり、歳神様が家からいなくなったら、お正月は終わりで、門松や他の正月飾りもしまいます。
本来松の内は、日本全国共通で1月15日まででしたが、江戸時代に幕府の都合で、江戸の松の内は1月7日までとされてしまいました。関西地方ではその新しい習慣は根付かず、そのまま松の内は1月15日までになったと考えられます。
京都は優しげに見えて、言う事聞かない?
京都では元旦から1月7日までを男正月、その後1月15日までを女正月と呼びました。暮れから正月まで色々と忙しかった女性を、女正月の名目でゆっくりさせてあげようと言う習慣だったのです。
せっかくの女正月ですから、それが終わるまでは松の内を終わらせるわけにはいかなかったのでしょう。
1月15日が女正月と言うのは、以前はカレンダーにも載っていました。でも、京都の場合はかなりまとまった日数なので、珍しいですね。それだけ昔の女性は大変だったと言うことでしょうか。
また京都は長い間、帝(今の天皇陛下)のお膝元でした。黙って幕府のお達しを聞くとは思えません。女正月にかこつけて、幕府のお達しを黙殺したのではないかと思うのですが、これは考え過ぎでしょうか。
誇り高き商人の街、大阪
大阪は商人の街でしたから、1月15日まで松の内と言うのは、意外な感じがしました。早く商売を再開した方が儲かりそうですよね。
でも、大阪の人たちは自分たちの街と文化に誇りを持っていました。例えば、関西で製造された商品を江戸に運ぶと、それは【下りもの】と呼ばれました。
品質も優れていたそうですが、関西の人たちが自分たちの商品にいかに誇りを持っていたかがわかります。関西が上だからこそ、商品が下るわけですからね。
大阪では江戸時代になってもしばらくは豊臣(秀吉)びいきの人が多かったそうです。幕府のお達しなどは、どこ吹く風だったのではないかと思います。
誰にとってもお正月は大切!
お正月の風習は長い間続いているので、松の内に関してもその地域の歴史や文化によって違いが出るのも不思議ではありません。でも、みんな自分の地域の風習が当然の事だと思っているので、他の地域との違いには気が付かないのです。
今この地域差をどうして『こうなったのかな?』と考えるのも、楽しいですね。他の地域がどんな風習なのか知る事で、自分が住んでいる地域の風習を大切に思う事ができそうです。
これ以上お正月が短くなりませんように!
近頃では関西地方でも、企業を中心に1月7日に正月飾りをしまう事が増えているそうです。1月15日までがお正月と言うのは現代社会にはそぐわなくなっているのかも知れません。
江戸幕府の言う事を簡単には聞かなかった関西の人たちの根性が失われて行くようで、少し寂しい気がします。
私は関東在住ですが、1月7日はもう完全に平日だと感じています。私の父は広島出身でしたが、私が子供の頃には、松の内は1月7日までと言っていました。7日より前には会社に行きたくないと言っていたのをよく覚えています。
時代とともに松の内は短くなっていくのかも知れませんが、これ以上短くなるのは避けたいですね。1月7日までが松の内と言うのはなんとか死守したいものです。