正月飾りは【いつまで?】関東(東京・神奈川)の風習は他と違う?

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私は埼玉県に住んでいます。今までお正月がいつまでか、疑問に感じていませんでした。

年賀状の返事を出す時でも7日までに出せば、お正月の期間内と言う事で消印を押さないで配達してくれます。これは7日までは松の内、お正月だと言う証拠だと私は思っていました。

正月飾りも7日まで飾ってから、片付けるのが当然と思っていました。

だから関西では15日までは松の内だと言われても、関西が特別なケースで、随分と長いお正月だなと感心していました。でも、本当は東京を中心とした関東の松の内が特別らしいのです。

今回は

  • 関東地方(東京・神奈川)で、正月飾りを飾るのはいつまで?
  • 東京の松の内は他と違うのか。

について解説します。

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目次

関東の正月飾りは【いつまで?】かつて松の内は日本全国共通だった!

松の内は、お正月に家にいらっしゃる歳神様の目印のために、門に門松を立てている期間の事を言います。

もともと松の内は、日本全国共通で1月15日まででした。1月15日に正月飾りをしまい、1月20日には鏡開きを行っていました。

関東の正月飾りは【いつまで?】変わったきっかけは徳川家光

1651年4月20日に三代将軍徳川家光がなくなってから、1月20日に鏡開きはけしからんと言う事になりました。これは月命日だからでしょう。

そこで1月11日に鏡開きを移動しましたが、そうすると松の内が終わらぬ内に鏡開きをする事になってしまいました。松の内が終わらないのに、鏡開きをするのはおかしいと言う事で、江戸(今の東京)の松の内は1月7日までとなったのです。

だから関東では東京以外でも松の内は1月7日までで、正月飾りをしまうのも1月7日の所が多いのです。

関東の正月飾りは【いつまで?】関西までは変えられなかった

ただ関西地方にまでお達しが行き渡らなかったのか、関西の人たちが意に介さなかったのか、京都・大阪などでは松の内は1月15日のままです。

また関西と関東の中間、東海地方では松の内が1月7日と15日までの地域が入り混じっているそうです。

関東の正月飾りは【いつまで?】幕府が松の内を短くしたのは防災目的?

幕府が松の内を短くしたかったのには、実はもう一つ理由がありました。こちらの理由は家光の命日とは関係ありません。

江戸(今の東京)の街は火事がとても多かったために、幕府はなんとかこれを防ぎたかったのです。そのため家の外に飾って燃えやすい門松を早く片付けさせたかったのではないかと言われています。

1657年の明暦の大火(振袖火事とも呼ばれていますね)を教訓にして、門松は7日を飾り納めとするようにお達しがあったと言われています。

江戸っ子も認めた、短縮松の内

こうして色々な事情から江戸の松の内は関西に比べて1週間以上も短くなってしまいました。最初は幕府の命令で仕方がなかったのかも知れませんが、松の内の変更を受け入れて定着させたのは、江戸の庶民たちです。

江戸時代初期、江戸は地方から出てきた男性の労働者がとても多かったそうです。彼らは働かなければ、賃金がもらえなかったのではないでしょうか。そんな彼らの心の中には『そんなに休んでられないよ!』と言う気持ちがあったのではないかと、私は思っています。

幕府の勢力は静岡までだった?

それにしてもそれまであった伝統を変えてしまったのですから、徳川幕府の権力は恐るべきものだったのですね。関西の松の内は変わりませんでしたが、静岡は1月7日で松の内が終わります。これは静岡が徳川家康の地元だったためと言われています。

静岡の隣、神奈川県には東海道の宿場が9つもあったそうです。江戸時代には宿場町はとても栄えたそうですから、幕府のお達しもよく届いた事でしょう。すんなり松の内の期間は短縮されたのではないかと思います。

松の内は【いつまで?】その内1月7日で統一される?

今、日本全国で松の内は1月7日までと言う認識になってきています。関西でも企業は1月7日に正月飾りをしまう事が増えたそうです。結局今の時代に半月以上のお正月を楽しむ人はいなくなったと言う事でしょうか。

その内松の内は、1月7日までに統一される日が来るのではないでしょうか。

1月7日にしまうとしたら、一週間程しか飾れない正月飾りですから、今年の暮れは忘れないよう、きちんと飾って下さいね!正月飾りを飾って、しまうまでがお正月です。ちゃんとやらないと、歳神様もちゃんと来てくれないかも知れませんよ!

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